令和5年度 しまじまの芸能祭@首里城公園
2024年2月4日、首里城公園の首里杜館前の芝生広場で「しまじまの芸能祭」が行われました。
沖縄県主催の県内各地の伝統芸能を紹介するイベントで、今回は北中城村の「赤木名節」、沖縄市の「泡瀬京太郎」、宮古島市の「漲水クイチャー」、南城市の「当間の獅子舞」、本部町の「松竹梅鶴亀」でした。
沖縄観光ガイドの赤瓦ちょーびん、沖縄県立芸術大学の神谷武史さんの解説もあって勉強になりました。
演目1、北中城村の字島袋民俗芸能保存会による琉球舞踊「赤木名節」。
空手の形を多用した二才踊。
二才踊は、青年男性の踊りなので、「前の浜」や「亀の甲」など迫力のある演目が多いです。
演舞後は、字島袋民俗芸能保存会による解説がありました。
赤木名節は、『琉歌百控』では「笠利間切之内赤木名村」とありますが、奄美大島では残っていません。
奄美諸島が琉球の支配下だった薩摩侵攻(1609年)より前に、赤木名から沖縄に伝わったとされています。
字島袋民俗芸能保存会によると、沖縄から赤木名へ出張していた役人が、沖縄に帰ってから赤木名節を作った可能性もあるそうです。
沖縄県内では、歌詞が若干違いますが、伊江村でも「赤木名節」が継承されています。
演目2、沖縄市の泡瀬京太郎保存会による「泡瀬京太郎」。
京太郎(ちょんだらー)は、本土から沖縄に伝わった正月の門付芸能。
京太郎芸能の一部は、首里郊外の安仁屋村から寒水川芝居に伝わり、さらに明治39年、村の輿(コー、霊柩のこと)の仕立ての祝事の為に泡瀬村に取り入れられました。
出羽の早口説で登場すると、「扇子の舞」。
宮良當壮の『沖縄の人形芝居』の「京の下り」と部分的に似た歌詞がありますが、かなり短くなっていて歌詞の内容がよく分かりませんでした…汗
京太郎芸能の人形劇では、前座として扇子舞をしていたそうです。
続いて、「御知行の歌」。
知行米(扶持米)を貰えると言われて沖縄に来たのに結局貰えなかったという、京太郎が騙されたような内容です。
しかし、祝言万歳の「桝舞」「桝ばかり舞」などが原歌と考えられていて、本来は正月らしいお目出度い歌だったようです。
「馬舞者」は、2人の馬乗りの道化問答です。
腰に馬の頭があって、以前見学した辻のジュリ馬や、竹富島の馬乗者を思い出します。
「鳥刺し舞」は、日本各地で祝福の芸として継承されています。
鳥刺しは、細い竹竿などの先端に鳥黐(とりもち)を付けて、鳥を捕まえる人のこと。
馬舞者の演者による解説がありました。
ボケとツッコミの漫才なので、うちなー口の分かる人には笑って欲しいそうです。
残念ながら、台本は入手出来ましたが、内容は分かりませんでした…(共通語訳が欲しい!)
演目3、宮古島市の漲水クイチャー保存会による「漲水クイチャー」。
最初に、踊り方のレクチャーがありました。
始めは漲水クイチャー保存会の人達だけでしたが、途中から多くの飛び入りがって、盛り上がりました。
宮古島に行って、地元でのクイチャーの雰囲気を感じたいですね。
漲水クイチャー保存会のインタビューでは、今回のイベントで80代から90代の女性達も踊っていたことが明らかになりました!
沖縄出身のjimamaによるライブ。
演目4、南城市の当間伝統芸能保存会による「当間の獅子舞・棒術」。
最初に、棒術によって座を清めます。
続いて、「当間の獅子舞」。
獅子舞を誘き出す役目のワクヤーが、格好良いですね。
当間伝統芸能保存会のインタビュー。
演者たちが、全員若いです。
当間の獅子舞は、握り棒が独特です。
普通は獅子頭の上下で口を操作しますが、当間の場合には、獅子頭の左右を握るので反動で口を開閉します。
演目5、本部町の渡久地行政区による琉球舞踊「松竹梅鶴亀」。
雑踊「松竹梅」は、明治の頃に仲毛芝居の役者・玉城盛重が歌舞伎にならって松竹梅の振付けをしたのが始まりです。
その後、甥の玉城盛義が鶴と亀を付け足して「松竹梅鶴亀」になりました。
頭の上の被り物(松、竹、梅、鶴、亀)が、可愛いですね。
渡久地行政区のインタビューでは、本土から参加した竹役の竹子さんが大人気。
竹子さんは、実名ではなく、赤瓦ちょーびんが言い出しました。笑
鶴役の人は、自分で鶴子と言っていました。
各団体による今後の抱負。
最後は、やっぱりカチャーシー。
ホントの最後の記念撮影。
今後も、「しまじまの芸能祭」を続けていくそうなので、期待ですね。
地図をGoogleマップで表示
沖縄県主催の県内各地の伝統芸能を紹介するイベントで、今回は北中城村の「赤木名節」、沖縄市の「泡瀬京太郎」、宮古島市の「漲水クイチャー」、南城市の「当間の獅子舞」、本部町の「松竹梅鶴亀」でした。
沖縄観光ガイドの赤瓦ちょーびん、沖縄県立芸術大学の神谷武史さんの解説もあって勉強になりました。
演目1、北中城村の字島袋民俗芸能保存会による琉球舞踊「赤木名節」。
空手の形を多用した二才踊。
二才踊は、青年男性の踊りなので、「前の浜」や「亀の甲」など迫力のある演目が多いです。
演舞後は、字島袋民俗芸能保存会による解説がありました。
赤木名節は、『琉歌百控』では「笠利間切之内赤木名村」とありますが、奄美大島では残っていません。
奄美諸島が琉球の支配下だった薩摩侵攻(1609年)より前に、赤木名から沖縄に伝わったとされています。
字島袋民俗芸能保存会によると、沖縄から赤木名へ出張していた役人が、沖縄に帰ってから赤木名節を作った可能性もあるそうです。
沖縄県内では、歌詞が若干違いますが、伊江村でも「赤木名節」が継承されています。
演目2、沖縄市の泡瀬京太郎保存会による「泡瀬京太郎」。
京太郎(ちょんだらー)は、本土から沖縄に伝わった正月の門付芸能。
京太郎芸能の一部は、首里郊外の安仁屋村から寒水川芝居に伝わり、さらに明治39年、村の輿(コー、霊柩のこと)の仕立ての祝事の為に泡瀬村に取り入れられました。
出羽の早口説で登場すると、「扇子の舞」。
宮良當壮の『沖縄の人形芝居』の「京の下り」と部分的に似た歌詞がありますが、かなり短くなっていて歌詞の内容がよく分かりませんでした…汗
京太郎芸能の人形劇では、前座として扇子舞をしていたそうです。
続いて、「御知行の歌」。
知行米(扶持米)を貰えると言われて沖縄に来たのに結局貰えなかったという、京太郎が騙されたような内容です。
しかし、祝言万歳の「桝舞」「桝ばかり舞」などが原歌と考えられていて、本来は正月らしいお目出度い歌だったようです。
「馬舞者」は、2人の馬乗りの道化問答です。
腰に馬の頭があって、以前見学した辻のジュリ馬や、竹富島の馬乗者を思い出します。
「鳥刺し舞」は、日本各地で祝福の芸として継承されています。
鳥刺しは、細い竹竿などの先端に鳥黐(とりもち)を付けて、鳥を捕まえる人のこと。
馬舞者の演者による解説がありました。
ボケとツッコミの漫才なので、うちなー口の分かる人には笑って欲しいそうです。
残念ながら、台本は入手出来ましたが、内容は分かりませんでした…(共通語訳が欲しい!)
演目3、宮古島市の漲水クイチャー保存会による「漲水クイチャー」。
最初に、踊り方のレクチャーがありました。
始めは漲水クイチャー保存会の人達だけでしたが、途中から多くの飛び入りがって、盛り上がりました。
宮古島に行って、地元でのクイチャーの雰囲気を感じたいですね。
漲水クイチャー保存会のインタビューでは、今回のイベントで80代から90代の女性達も踊っていたことが明らかになりました!
沖縄出身のjimamaによるライブ。
演目4、南城市の当間伝統芸能保存会による「当間の獅子舞・棒術」。
最初に、棒術によって座を清めます。
続いて、「当間の獅子舞」。
獅子舞を誘き出す役目のワクヤーが、格好良いですね。
当間伝統芸能保存会のインタビュー。
演者たちが、全員若いです。
当間の獅子舞は、握り棒が独特です。
普通は獅子頭の上下で口を操作しますが、当間の場合には、獅子頭の左右を握るので反動で口を開閉します。
演目5、本部町の渡久地行政区による琉球舞踊「松竹梅鶴亀」。
雑踊「松竹梅」は、明治の頃に仲毛芝居の役者・玉城盛重が歌舞伎にならって松竹梅の振付けをしたのが始まりです。
その後、甥の玉城盛義が鶴と亀を付け足して「松竹梅鶴亀」になりました。
頭の上の被り物(松、竹、梅、鶴、亀)が、可愛いですね。
渡久地行政区のインタビューでは、本土から参加した竹役の竹子さんが大人気。
竹子さんは、実名ではなく、赤瓦ちょーびんが言い出しました。笑
鶴役の人は、自分で鶴子と言っていました。
各団体による今後の抱負。
最後は、やっぱりカチャーシー。
ホントの最後の記念撮影。
今後も、「しまじまの芸能祭」を続けていくそうなので、期待ですね。
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