琉球開闢の九御嶽と七御嶽
琉球開闢の御嶽は、時代によって一部変化しています。
羽地朝秀による琉球国の正史『中山世鑑』(1650年)と、琉球国末期(琉球藩)の『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』(1875年)に記述された開闢の御嶽を紹介します。
『中山世鑑』では、九御嶽:安須森(安須森御嶽)、カナヒヤブ(今帰仁城の上之嶽)、知念森(知念城の友利之嶽)、斉場御嶽、藪薩の浦原(藪薩御嶽)、玉城アマツヅ(玉城城の雨粒天次御嶽)、久高コバウ森(久高島のクボー御嶽)、首里森(首里城の首里森御嶽)、真玉森(首里城の真玉城嶽)。
一方、『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』では、七御嶽:国頭間切あおひ之御嶽(安須森御嶽)、今帰仁こはおの御嶽(今帰仁村のクバの御嶽)、首里森之御嶽(首里城の首里森御嶽)、そやはの御嶽(斉場御嶽)、弁之御嶽(弁ヶ嶽)、久高こはおの御嶽(久高島のクボー御嶽)、玉城雨辻(玉城城の雨粒天次御嶽)。
今帰仁村の「クバの御嶽」2009.10.28撮影
2009年10月28日に、琉球開闢七御嶽として知られている今帰仁城近くにある「クバの御嶽(クボウ御嶽)」(神名:ワカツカサノ御イベ)に行きました。
その時に気になったのが、人によって「クバの御嶽」の代わりに、今帰仁城内の「上之嶽(カナヒャブ)」(神名:テンツギノカナヒヤブノ御イベ)を琉球開闢の御嶽としている事でした。
神名が異なるので、「クバの御嶽」と「上之嶽」は異なるはずです。
図書館とインターネット上のデジタルアーカイブで、少しだけ調べてみました。
すると、小島瓔禮の論文「辺戸御嶽 霊山のアフリ信仰」参考資料①に、以下の記述がありました。
“創世神話に登場する今帰仁村の御嶽が、『中山世鑑』のカナヒヤブ(城内)から『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』のコバオの御嶽に変わっているように、クボウ御嶽は今帰仁城の宗教儀礼と一鎖の聖地である。”
『中山世鑑』参考資料②は、琉球大学図書館の琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブの伊波普猷文庫で公開されています。
「琉球開闢之事」で阿摩美久(アマミク)による国創りが記述されています。
“阿摩美久土石草木ヲ持下り嶋ノ数ヲハ作リケリ先一番ニ國上邊土ノ安須森次ニ今鬼神ノカナヒヤフ次ニ知念森齊場嶽藪薩ノ浦原次ニ玉城アマツ々次ニ久髙ユバウ森次ニ首里森真玉森次ニ嶋々國々ノ嶽々ヲハ作リテケリ”
※旧字や異体字で表示できない字があるので、文字の確認は下の画像を見てください。
『中山世鑑』
『訳注 中山世鑑』参考資料③の方が、分かり易いかな。
琉球国中山世鑑巻一「琉球開闢之事」で、以下のように記述されています。
“阿摩美久は土石と草木を持って降り数々の島を作った。まず、一番に国頭に辺土の安須森、次に今帰仁のカナヒヤブ、次に知念森、斉場御嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ森、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々森々を作った。”
※「カナヒヤブ」と「知念森」について、琉球王府が1713年に編纂した『琉球国由来記』参考資料④で、以下のように記述されています。
“今帰仁間切 城内上之嶽 神名 テンツギノカナヒヤブノ御イベ”
“知念間切 城内友利之嶽 神名 知念森添森ノ御イベ”
以上のことから、琉球国の正史『中山世鑑』(1650年)では、七御嶽という表現はしていません。
琉球開闢で創られたのは、以下の九御嶽です。
安須森(安須森御嶽)、カナヒヤブ(今帰仁城の上之嶽)、知念森(知念城の友利之嶽)、斉場御嶽、藪薩の浦原(藪薩御嶽)、玉城アマツヅ(玉城城の雨粒天次御嶽)、久高コバウ森(久高島のクボウ御嶽)、首里森(首里城の首里森御嶽)、真玉森(首里城の真玉城嶽)
国頭村の「安須森御嶽」2009.10.19撮影
一方、『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』(1875年)参考資料⑤について。
この資料も、琉球大学図書館の琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブの伊波普猷文庫で公開されています。
『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』
崩し字はハードルが高いので、池宮正治の論文「翻刻『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』」参考資料⑥によると、以下の記述があります。
“御国之御立始は国頭間切あおひ之御嶽今帰仁こはおの御嶽首里森之御嶽そやはの御嶽弁之御嶽久高こはおの御嶽玉城雨辻此七御嶽昔はあらは海ニ干瀬出上り阿摩弥久しられ久天より七御嶽江御下り御覧被遊”
※「あおひ之御嶽」と「そやはの御嶽」について、小島瓔禮の論文「御嶽と山岳信仰」参考資料⑦に、以下の記述があります。
“国頭間切辺戸村のアフリ嶽(あおひのお嶽、アス森)”
“久手堅村の岩山にあるサイハノ嶽(斎場嶽、そやはの嶽)”
従って、琉球国末期(琉球藩)の『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』(1875年)では、以下の七御嶽。
国頭間切あおひ之御嶽(安須森御嶽)、今帰仁こはおの御嶽(今帰仁村のクバの御嶽)、首里森之御嶽(首里城の首里森御嶽)、そやはの御嶽(斉場御嶽)、弁之御嶽(弁ヶ嶽)、久高こはおの御嶽(久高島のクボー御嶽)、玉城雨辻(玉城城の雨粒天次御嶽)
ずっと気になっていた事が分かって、スッキリしました。
インターネットで調べるだけではなく、実際に本を読む事が必要ですね。
参考資料:
①『日本の神々 神社と聖地 13 南西諸島』(谷川健一/編 白水社 2000.7)pp.302-316「辺戸御嶽 霊山のアフリ信仰 小島瓔禮」
②『中山世鑑 全』伊波普猷文庫IH023(琉球大学附属図書館所蔵), https://doi.org/10.24564/ih02301
③『訳注 中山世鑑』(首里王府/編著 諸見友重/訳注 榕樹書林 2011.5)pp.31-41琉球国中山世鑑巻一「琉球開闢之事」
④『定本 琉球国由来記』(外間 守善・波照間 永吉/編著 角川書店 1997.4)p.300琉球国由来記巻十三「知念間切」p.385琉球国由来記巻十五「今帰仁間切」
⑤『同治十四年乙亥三月吉旦 聞得大君御殿並御城御規式之御次第』伊波普猷文庫IH033(琉球大学附属図書館所蔵), https://doi.org/10.24564/ih03301
⑥『琉球大学法文学部紀要 国文学論集 第21号』(琉球大学法文学部/編集・刊 1977.3)pp.103-116「翻刻『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』池宮正治」
⑦『琉球学の視角』(小島瓔禮/著 柏書房 1983.4)pp.88-112「御嶽と山岳信仰」
羽地朝秀による琉球国の正史『中山世鑑』(1650年)と、琉球国末期(琉球藩)の『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』(1875年)に記述された開闢の御嶽を紹介します。
『中山世鑑』では、九御嶽:安須森(安須森御嶽)、カナヒヤブ(今帰仁城の上之嶽)、知念森(知念城の友利之嶽)、斉場御嶽、藪薩の浦原(藪薩御嶽)、玉城アマツヅ(玉城城の雨粒天次御嶽)、久高コバウ森(久高島のクボー御嶽)、首里森(首里城の首里森御嶽)、真玉森(首里城の真玉城嶽)。
一方、『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』では、七御嶽:国頭間切あおひ之御嶽(安須森御嶽)、今帰仁こはおの御嶽(今帰仁村のクバの御嶽)、首里森之御嶽(首里城の首里森御嶽)、そやはの御嶽(斉場御嶽)、弁之御嶽(弁ヶ嶽)、久高こはおの御嶽(久高島のクボー御嶽)、玉城雨辻(玉城城の雨粒天次御嶽)。
今帰仁村の「クバの御嶽」2009.10.28撮影
2009年10月28日に、琉球開闢七御嶽として知られている今帰仁城近くにある「クバの御嶽(クボウ御嶽)」(神名:ワカツカサノ御イベ)に行きました。
その時に気になったのが、人によって「クバの御嶽」の代わりに、今帰仁城内の「上之嶽(カナヒャブ)」(神名:テンツギノカナヒヤブノ御イベ)を琉球開闢の御嶽としている事でした。
神名が異なるので、「クバの御嶽」と「上之嶽」は異なるはずです。
図書館とインターネット上のデジタルアーカイブで、少しだけ調べてみました。
すると、小島瓔禮の論文「辺戸御嶽 霊山のアフリ信仰」参考資料①に、以下の記述がありました。
“創世神話に登場する今帰仁村の御嶽が、『中山世鑑』のカナヒヤブ(城内)から『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』のコバオの御嶽に変わっているように、クボウ御嶽は今帰仁城の宗教儀礼と一鎖の聖地である。”
『中山世鑑』参考資料②は、琉球大学図書館の琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブの伊波普猷文庫で公開されています。
「琉球開闢之事」で阿摩美久(アマミク)による国創りが記述されています。
“阿摩美久土石草木ヲ持下り嶋ノ数ヲハ作リケリ先一番ニ國上邊土ノ安須森次ニ今鬼神ノカナヒヤフ次ニ知念森齊場嶽藪薩ノ浦原次ニ玉城アマツ々次ニ久髙ユバウ森次ニ首里森真玉森次ニ嶋々國々ノ嶽々ヲハ作リテケリ”
※旧字や異体字で表示できない字があるので、文字の確認は下の画像を見てください。
『中山世鑑』
『訳注 中山世鑑』参考資料③の方が、分かり易いかな。
琉球国中山世鑑巻一「琉球開闢之事」で、以下のように記述されています。
“阿摩美久は土石と草木を持って降り数々の島を作った。まず、一番に国頭に辺土の安須森、次に今帰仁のカナヒヤブ、次に知念森、斉場御嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ森、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々森々を作った。”
※「カナヒヤブ」と「知念森」について、琉球王府が1713年に編纂した『琉球国由来記』参考資料④で、以下のように記述されています。
“今帰仁間切 城内上之嶽 神名 テンツギノカナヒヤブノ御イベ”
“知念間切 城内友利之嶽 神名 知念森添森ノ御イベ”
以上のことから、琉球国の正史『中山世鑑』(1650年)では、七御嶽という表現はしていません。
琉球開闢で創られたのは、以下の九御嶽です。
安須森(安須森御嶽)、カナヒヤブ(今帰仁城の上之嶽)、知念森(知念城の友利之嶽)、斉場御嶽、藪薩の浦原(藪薩御嶽)、玉城アマツヅ(玉城城の雨粒天次御嶽)、久高コバウ森(久高島のクボウ御嶽)、首里森(首里城の首里森御嶽)、真玉森(首里城の真玉城嶽)
国頭村の「安須森御嶽」2009.10.19撮影
一方、『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』(1875年)参考資料⑤について。
この資料も、琉球大学図書館の琉球・沖縄関係貴重資料デジタルアーカイブの伊波普猷文庫で公開されています。
『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』
崩し字はハードルが高いので、池宮正治の論文「翻刻『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』」参考資料⑥によると、以下の記述があります。
“御国之御立始は国頭間切あおひ之御嶽今帰仁こはおの御嶽首里森之御嶽そやはの御嶽弁之御嶽久高こはおの御嶽玉城雨辻此七御嶽昔はあらは海ニ干瀬出上り阿摩弥久しられ久天より七御嶽江御下り御覧被遊”
※「あおひ之御嶽」と「そやはの御嶽」について、小島瓔禮の論文「御嶽と山岳信仰」参考資料⑦に、以下の記述があります。
“国頭間切辺戸村のアフリ嶽(あおひのお嶽、アス森)”
“久手堅村の岩山にあるサイハノ嶽(斎場嶽、そやはの嶽)”
従って、琉球国末期(琉球藩)の『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』(1875年)では、以下の七御嶽。
国頭間切あおひ之御嶽(安須森御嶽)、今帰仁こはおの御嶽(今帰仁村のクバの御嶽)、首里森之御嶽(首里城の首里森御嶽)、そやはの御嶽(斉場御嶽)、弁之御嶽(弁ヶ嶽)、久高こはおの御嶽(久高島のクボー御嶽)、玉城雨辻(玉城城の雨粒天次御嶽)
ずっと気になっていた事が分かって、スッキリしました。
インターネットで調べるだけではなく、実際に本を読む事が必要ですね。
参考資料:
①『日本の神々 神社と聖地 13 南西諸島』(谷川健一/編 白水社 2000.7)pp.302-316「辺戸御嶽 霊山のアフリ信仰 小島瓔禮」
②『中山世鑑 全』伊波普猷文庫IH023(琉球大学附属図書館所蔵), https://doi.org/10.24564/ih02301
③『訳注 中山世鑑』(首里王府/編著 諸見友重/訳注 榕樹書林 2011.5)pp.31-41琉球国中山世鑑巻一「琉球開闢之事」
④『定本 琉球国由来記』(外間 守善・波照間 永吉/編著 角川書店 1997.4)p.300琉球国由来記巻十三「知念間切」p.385琉球国由来記巻十五「今帰仁間切」
⑤『同治十四年乙亥三月吉旦 聞得大君御殿並御城御規式之御次第』伊波普猷文庫IH033(琉球大学附属図書館所蔵), https://doi.org/10.24564/ih03301
⑥『琉球大学法文学部紀要 国文学論集 第21号』(琉球大学法文学部/編集・刊 1977.3)pp.103-116「翻刻『聞得大君御殿并御城御規式之御次第』池宮正治」
⑦『琉球学の視角』(小島瓔禮/著 柏書房 1983.4)pp.88-112「御嶽と山岳信仰」
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