昨日に続いて、今日も良い天気です。
前から気になっていた組踊で有名な玉城朝薫の墓へ行ってきました。
朝薫は政治家、芸術家として華やかな生涯を送りましたが、私生活では決して円満ではなかったようです。
朝薫の遺言により、首里石嶺に「一つ墓(唯一人の墓)」を建てました。
一つ墓の位置は、沖縄戦で分からなくっています。
朝薫が一つ墓を望んだ理由は不明ですが、晩年に長年連れ添った妻子と別れ、若い妻(武樽)を娶った為とも云われています。
武樽は朝薫の長女の年齢に近く、また百姓の娘だったので、名門・尚家(具志川家の支流)の人々から強い反発を受けたのかな。
朝薫の遺骨は、後年になって、浦添市前田にある辺士名家の門中墓に移されました。
DA PUMPのISSA(邊土名一茶)は、朝薫の末裔だそうですね。
辺士名家の門中墓は、JICA沖縄のすぐ近くのトンネルの上にあります。
良く手入れされていて、ピースフルな感じでした。

玉城朝薫の墓(辺士名家の門中墓)

ついでに、浦添城跡にも行ってきました。
まずは、王陵の「浦添ようどれ」へ。
「浦添ようどれ」に至る石垣は、沖縄戦後に復元する際に、大きさが分からなくて困難を極めました。
解決したのは、熊本医科大学長だった山崎正董博士の沖縄旅行写真です。
戦前に来沖した山崎博士は、至る所で記念写真を撮影しましたが、殆ど全てに山崎博士が写っています。
山崎博士が縮尺となって、元の大きさの石垣の復元が可能となりました。
何が役に立つのかは、分からないですね。笑

浦添ようどれへの道@浦添城跡

写真の手前側が尚寧王の墓で、奥が英祖王の墓。
英祖王は、第一尚氏王統以前の英祖王統の始祖です。
尚寧王は、第二尚氏王統の第7代目で浦添尚家。
王府内での首里尚家(尚真王五男・尚清王の流れ)と浦添尚家(尚真王長男・尚維衡(浦添王子朝満)の流れ、小禄御殿)の確執や薩摩侵攻など、興味のある人は調べてみると感慨深いかも。

浦添ようどれ@浦添城跡

「浦添ようどれ」を下から見上げると、こんな感じ。

浦添ようどれ@浦添城跡

次は、「沖縄学の父」とも呼ばれる伊波普猷の墓へ。
向かって右側にあるのは、東恩納寛惇による撰文を刻んだ顕彰碑。
顕彰碑では、「おもろと沖縄学の父 伊波普猷」となっています。
「おもろ」の最初の字が「た」のように見えるんですが、「お(於)」のくずし字です。

彼ほど沖縄を識った人はいない
彼ほど沖縄を愛した人はいない
彼ほど沖縄を憂えた人はいない
彼は識った為めに愛し愛した為めに憂えた
彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった

伊波普猷の墓@浦添城跡

浦添城跡からの眺めは最高!!

浦添城跡からの眺め

玉城朝薫の墓、浦添城跡(浦添ようどれ・伊波普猷の墓)の地図
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